
幸子さんの体臭
まどろみの中で、竹下明夫はその匂いを嗅いだ。
少し甘くて、どこか酸っぱくて、鼻の奥をツンと刺激するような匂い。それであの人が近くにいるのだと分かり、幸福感に包まれた。
もう少しまどろみの中に踏みとどまっていたかったが、咳をしてしまい、額からタオルが落ちた。残念なことに完全に覚醒してしまった。
「お義父さん、お加減はいかがですか」
「……ああ、だいぶよくなったよ」
風邪による苦痛をもっと訴え、甘えれば良かったと後悔したが、人に弱みを見せないようにして生きてきた明夫には、その判断がとっさにはできなかった。
「今おかゆをお持ちしますね。昨日から何も食べてないから、お腹空かれたでしょう」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
明夫はキッチンへ向かう彼女――幸子さんの背中をぼんやり見つめた。
数年前妻に先立たれ、一人暮らしをしていた明夫だったが、一昨日の夜から風邪をこじらせていた。それで、息子夫婦が購入したばかりのマンションで一時的に世話になっていた。
幸子さんはよくできた女だった。
控え目でよく気が利き、必要以上のお節介は焼かず、いつも明夫の顔を立ててくれる。1人での生活にはすっかり慣れたが、やはり人と接するのは楽しい。
特に幸子さんに優しくされるのは、趣味がパチンコくらいしかない明夫にとって至上の喜びだった。
パタパタと足音がした。幸子さんが土鍋を運んできてくれた。
「お義父さん、お熱いの苦手でしたよね。少し冷ましておきましたから」
これだ。
この気遣い。
明夫が猫舌だということまで覚えてくれている。
バカ息子にはもったいない嫁だ。
俺がもっと若ければ、と明夫は思わずにいられない。もっと若ければ、その頃に出会っていれば、全身全霊で彼女を口説いていたことだろう。
「はい。あーんしてください」
「え?」
「おイヤじゃなければ。だってお義父さん、いつも気丈に振る舞っていらっしゃるから。風邪の時くらい甘えていただこうかと思って」
俺のそばで正座をし、小さい土鍋からおかゆをレンゲですくい、ニコリと微笑む幸子さん。すくったおかゆを尖らせた口でフーフーと覚まし、明夫の口元に運んでくる。生前の妻に、やはり同じようなことをしてもらったことを思い出す。
その時は照れてしまい、結局自分で食べたのだが、今なら……。
明夫は遠慮がちに口を開き、幸子さんが冷ましてくれたおかゆを口に含んだ。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい加減だった。口内に広がる柔らかさに心まで温かくなった。
「うん、うまい。うまいよ、幸子さん。幸子さんは料理の天才だな」
本心で言ったつもりだったが、
「お上手ですね。イヤだわ、おかゆくらいで」
彼女はそうとは捉えてくれなかったようだ。
若干の不満を覚えながら2口目を食べさせてもらった時、またアレがきた。
鼻の奥を刺激する匂い。
幸子さんはノースリーでベージュのニットを着ていたが、レンゲを明夫の口へ運ぶ時に腋(わき)が丸見えになっていた。(つづく)